++ 想い馳せる ++





入団間もなくはあるものの、既に通い慣れ始めた支部長室の扉を前に李佳は足を止めた。 この扉の向こうにいるのは、間違いなく支部内において最高位に値する役職の人物である。 大抵、幹部職の人間という者は一端の人間から敬遠されがちであるものだが、 彼、李佳の気負いする原因はその事ではなく―。


とにかく仕事はこなさねばなるまいと、
小さく息を吐いて李佳は扉に手を掛けたのだった。








「バク支部長ぉー、入りますよー…」


コンコン、とノックを2回。
一息と間を置いて扉を開けると、そこには予想と寸分違わぬ支部長の後姿が見えた。
気配を感じたのだろうか。支部長ことバク・チャンは、キィと小さく椅子を回してこちらを振り向いたが、 訪問者が李佳である事を確認すると、小奇麗な片手を挙げて静止を合図し、すぐさま椅子を反転させてしまう。 受話器を片手に手元の書類へ何やら書き込んでいる様を見ると、どうやら取り込み中であったようだ。 李佳は肩を竦めて見せるように一息つくと、そのまま壁際に凭れるようにして彼を待つ事にした。



手持ち無沙汰な時間を与えられた李佳は、何気なくその部屋を見回した。
支部内の、各所に設置された監視システムを映し出すモニターと本部や他支部からの通信手段として置かれた電話機。 その他、新人に程近い李佳には未だ理解出来ぬ機器等が所狭しと並べられているアジア支部、支部長室。 様々な部署の総括であるこの部屋が、それでも物に埋もれる事無く整頓されているのは、彼の有能な助手のお陰なのだろうか。 デスクの前に置かれた、やや大きめの椅子が彼の定位置だった。







「――、ウォーカーは―――、出来ないでいる…」







唐突に覚えのある名が聞こえてきて、それまでぼんやりとしていた李佳はふと顔を上げた。 アレン・ウォーカー。先日、この支部へと運ばれてきた少年エクソシストの名である。 瀕死の重症を負い、イノセンスを砕かれて尚、一命を取り留めた少年。
しかし砕かれたはずの彼のイノセンスは、驚くべき事に消滅する事なく今も粒子となってとどまり続けている。 誰もが貴重な戦力の消滅に絶望していた、その矢先に降って湧いた希望。


彼はその可能性をものにすべく、
数日前からこの支部内において奮闘しているのだが。



「(…やっぱり電話の相手はあの人かよ…)」


予想はしていたものの、こうも当たってしまうと心中は穏やかでいられない。
あの人こと、コムイ・リーは黒の教団本部に在籍する室長の地位にある男。 入団当初はこのアジア支部にいたらしい事を風の噂で耳にした事はあるが、入団間もない李佳に面識はそれ程無い。 現支部長である彼と同じ年齢、若くしてその地位に上り詰めた頭脳と功績。 同じ科学班員だったというコムイに対しての、敬意はもちろんあるにはあるが、それとはまた別に、思う節もあるのだ。


先日こちらに保護された、あの少年。
エクソシストとはいえ、まだ年若い彼の身を案じてか、ここ数日の本部からの通信は日増しに増えている。 それこそ暇さえあれば、といった具合にだ。今の現状下において、尚且つ総本部において「暇」といった物が果たしてあるのかは疑問だが、 その頻繁さには少々呆れるくらいでもある。

それも、支部長である彼に直通で。

お互い支部においての長同士であるのだから、戦況や情報の交換が頻繁になるのは当たり前と言えばそうなのかもしれない。 だが、時折ただの世間話にしか聞きようのない会話が聞こえてくるとなると、些か「少年の身を案じ」と言うのは 実はただの口実なのではないか、とさえ思えてくるのだ。いっそ世間話に暗号化された会話でもしているのかと思えば、 時々電話口へ怒鳴り散らしている彼を見る限り、本当にただの世間話らしかった。 …実のところの本音を言えば、こうして彼を独占しているあの人に対して、李佳自身穏やかでないものがある、というだけなのだが。





今日も今日とて、だんだん悶々としたものを覚えながら彼の電話が終わるのを待っている。 壁に凭れて俯いた李佳の耳に、いつも通りの少し興奮気味な彼の声が届いたのはそれからすぐの事だった。






「全くあの男は!何度ちゃんというなと言えば気が済むんだ…!!」



些か乱暴に受話器を叩き付けた彼は、怒り心頭といった風に電話機を睨み付けていた。 飄々と笑う『あの人』の顔でも浮かぶのだろうか。悔しそうに唇を噛み締めながら、手元の書類を乱雑に掻き集めている。


「…電話、終わったんすか」
「あぁ?すまない、待たせたな李佳…」
「いえ…また、本部からですか?」
「あぁそうだ。全く、下らない電話を寄越すくらいなら仕事をしろというのに…
奴の部下が哀れでならんな」


あえて電話相手の名を呼ばないのは、自分の些細な意地なのだろうか。
ブツブツと何事かを呟きながら、デスク上を整頓している彼は、案外細やかな性格なのかもしれない。 その様子を静かに傍観していた李佳は、ふと、自分がココへ来た本来の理由を思い出す。 慌てて声を掛けようとするが一瞬遅く、先に彼が口を開いた。


「そういえば、何かあるんだろう。何だ?」
「あぁ…コノの書類をウチの班長が。バク支部長へ通してこいと」
「何の書類だ」
「先日の試験結果と、その経過報告っす」


差し出された紙の束を受け取りパラパラと捲るその仕草に、李佳は思わず目を奪われた。 羅列された文字を追う、伏目がちな瞼を覆う睫は繊細で、その毛色は彼自身がアジアの神秘と謳われるだけあって、 仮にも東洋人であるはずの人間にしては不思議な色合いをしている。 時折動かされる指先は細めで、欠ける事無く整えられた爪先は血色も良い。 ふと盗み見るようにして視線を上げれば、ほっそりとした顎へ手をあてて、書類と対峙する真剣な眼差し。 小さく呼吸をする、薄く開かれた唇は十分に水分を含んでいるのだろう。 思わずドキリと高鳴りを覚えた李佳は赤面する顔を隠しながら、慌ててそれを振り払うように頭を振った。






「(マズイ、いくらなんでもこれはマズイだろ…しっかりしろ、俺!)」






顔良し、頭脳良し、尚且つ家柄も申し分無い。性格は…まぁ程ほどに。
真面目に彼を分析しながら、こんな人間が転がっていたら誰も放って置かないだろうにと思う。 彼が三十路を手前に未だ独り身であることが、それこそ疑わしく思えるのだが。





――…あの人も、そんな彼に惹かれた一人なのかねぇ…。







「うむ、これなら問題無い。続けて経過を見るよう伝えてくれ…
…って、おい李佳、聞いてるのか?」
「え?!あ、はい聞いてます、聞いてますって…」


ふと浮かんだ考えに悶々としていた李佳は、跳ねるように顔を上げた。
照れ笑いを浮かべる李佳に対し、彼は呆れたと言った風に溜息を吐いてみせたが、 すぐ何事も無かったかのようにデスクへ向き直り書類へサインを書き込み始める。


「そういえば…仕事諸々、資料庫の掃除も手を抜くなよ」
「え?分かってますってー…ちゃんとやってますよ」
「好奇心旺盛なのは科学者として賢明だが…
仕事を抜け出すようでは困りものだからな」
「ははは…すんません…」


ほら、と差し出された書類を受け取る。
後は持ち場である科学班へと戻るだけなのだが。 まるでこの場を離れるのが嫌だと駄々を捏ねるように、その足は動かない。 一向に立ち去る気配の無い李佳を、彼は不思議そうに眺めながら問うた。


「…?どうした、まだ何かあるのか」
「いや、えーと…その、バク支部長は…あの人の事嫌いなんすか」


動かない足の理由に、咄嗟に出した質問は失敗だったと、気が付くも時既に遅し。
彼の口から語られる、あの人の話題が一番嫌いだというのに。
自ら聞いてしまうなんて、どれだけの馬鹿だろう。


「いや、ほらその、毎度毎度電話口で喧嘩してるなぁと思って。
…でもその割には良く電話来ますし…」
「あの人…あぁ、コムイの事か?
…何だ、まさか貴様、あちらに行きたいとでも言うんじゃなかろうな」
「いやそんな、滅相もない!…俺はココに、志願書出したんすからね!!」
「ふん…まぁ、確かに気に食わん奴ではあるか。
俺様を差し置いて室長等と謳って居る癖に、その実戯言ばかりを吐く男だからな」


一つ一つ、彼はその姿を思い浮かべるようにして語りはじめた。
やれ「ぽっと出のチャイニーズが」だの「馬の骨の癖に」とどうのこうの。 出てくる言葉は、あの人に対する卑下の言葉ばかりのようにも思え、犬猿の仲を思わせる語りにはそれこそ相応しい程の語句の数々。 それでも、ふとした瞬間に見せる彼の表情はそれはそれは穏やかで、時折思い出したように笑みを浮かべている。


自分から話を持ちかけた手前、話を打ち切る術を持たぬ李佳はもはや脱力する一方で、打ちひしがれるままに苦笑を浮かべていた…。








暫く語り終えた彼と一言二言を交わして、李佳は半ば転がり出るように扉を閉めた。
些か勢い付き過ぎてしまったのだろう。拍子に、小脇に抱えていた書類の紙束がバサバサと落ちて舞う。 散乱してしまった書類を慌ててしゃがみ込みかき集めながら、李佳は思わず大きな溜息と共に嘆いた。


「あー…ちくしょう、あれじゃ惚気に変わりねぇじゃねぇかよ…」


至る所で、さも犬猿の仲だと触れ回る常とは裏腹に、彼とあの人との間には確かに、ある種の絆という物が存在する。 それが例えどんなものであろうとも、彼の言葉を聞いていればそれが事実だという事は誰の目にも明らかで―。




『色々と気に食わん奴だが…あの男の実力は本物なのだから、致し方あるまい』




最後にそう呟いた彼の、何と清々しそうな表情だった事か。
あんなに離れていても尚、彼の注意を引いているあの人が、少しだけ憎らしかった。
自分なら、どんな理由があろうとも彼の下を離れたりはしないのに。
壁際に座り込んだまま、李佳ぼんやりと天井を仰ぎ見た。







「…あーもう、俺はココを離れたりなんかしてやらねーっすからね!」







自棄になって叫んだ言葉は、人気の無い廊下へと空虚に消えた。


これでも李佳→バクだと言い張る。(またお前マイナーな…)
コムバクでもバクコムでも、とにかくその二人を前提にした李→バク。
コムイ相手だったらリバなバクちゃんですが、部下相手だったら断然受けだと思う。
下克上万歳。つーか李佳つって覚えてる人いるかしら…(滝汗)
アジア支部の新人科学班メイツの中で背ぇ高ノッポの兄ちゃんです。李佳。