最初に養父。
次は…少々納得いかないが、師匠。
代わる代わる現れる教団の人たち。
旅の途中で出会った人々、そして。

最後に、彼。



―――非常に不本意ではあるのだが。









+++かくて災いは張り巡らされる+++









この身体になってまず行ったのは、泣き叫ぶことだった。

(幻痛が、する)

在るはずのない左腕が痛みを訴えるのを他人事のように感じていた。



ぼんやりとした光源が漏れ、少年――アレン・ウォーカーは薄闇に眠る。肉体の一部を失った苦痛を和らげるために、深く深く。その中で夜空をたゆたう意識があった。しんしんと溶ける濃紺の天を軽やかに翔け、今このとき彼は自由である。視界は暗いが大気は清い。何もかも忘れて見知らぬ地の空を存分に堪能し、アレンの思考は更なる高みを望んだ。望むまま願うまま、ぐいと上を向いて上昇を念じる。それだけで彼の身体は跳躍し、雲を突き抜けて十六夜を拝んだ。月光に浩々と照らされるアレンの顔は生白い。このまま行けばあの月をも掴める気がして、彼はおずおずと手を伸ばした。



――このまま行けば。



「……邪魔するな」



いつのまにかアレンの左手、失くしたはずの赤黒い神の手を、白いものが捕らえていた。よく見るとそれが人の手だということがわかる。造作の美しい、人間の手。彼(、あるいは彼女、)はアレンの行動を阻害するように、彼を下界へ戻そうとする。事実、その手に捕まれているともう上へは行けなかった。彼の自由は剥奪される。



「誰。僕はあそこに行くんだ。……離せ!」



手はますますアレンを締め付ける力を強める。
手に表情などあるべくもないが、それは彼を非難しているようにも見えた。



「何で止めるんだ!!」



アレンの声に反応し、白い手は彼を強引に地上へと引き戻してゆく。もう月は見えなかった。今宵は分厚い雲が天と地を隔てる。まるで目隠しでもされているようだ。光の届かない中では、せっかく目の前に現れた嫌味な手の持ち主も誰なのか判別がつかない。このままそうそうと思い通りにさせてたまるかと、アレンは力任せに捕まれた手を引き剥がす。



「何で、邪魔するんだよ」



今度はあっさり手は離れる。しかしもうアレンには昇る気力がなかった。
何もかもが馬鹿馬鹿しかった。月を欲しがって躍起になるなど子供のすることだ。



「……あなたは?」



風に流れた雲が、まろい月を欠片だけ見せる。
僅かに差し込んだ明かりの中で、アレンを引きとめ、そして見捨てた手の主が、ちらりと微笑った気がした。













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―――君が、止めるんだね。






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「……何あれ」



陽光が紗の掛幕に中和され、柔らかく部屋を包み込む。差し込む朝日の中でアレンは目覚めた。気持ちの良い朝だが後頭葉に鈍い痛みが走る。間違いなくそれは、ベッドから転がり落ちているせいだろう。覚醒すれば昨夜と変わらぬアジア支部の一室であり、今まで見ていたものが夢であったと知れる。ずりずりとベットへ這い上がり、寝起きが大概そうであるように、彼は枕を抱き締めながらゆっくりと夢の記憶を思い出した。頭痛との相乗効果で、今やらなければすぐに忘れてしまうことだろう。それはどうしてか惜しい気がした。



まずはアレンは精神体とでも呼ぶべき存在となっていて、中国の空を飛び回るのを楽しんでいた。
そうしてふと見上げた月が掴めそうで、掴みたくなって、届こうとして、邪魔な手に引きずり下ろされて、そして。



「……君、は」



その一点だけどうしても思い出せなかった。夢の中では一瞬だけ、犯人の顔が映し出されたはずなのだが。



「思い出せないと余計に気になるなぁ。でも別に顔が見れて嬉しいとは思ってなかったよな夢の中の僕。むしろ予想外だったような。いい気分になれないってことは別に会いたくもないような相手だったのかな。誰だか知らないけど。うんきっとそうだ。はい決定」



起き上がり、ベッドの上でぶつぶつ独り言を言っている己の姿を自覚してアレンは自嘲した。こんなところを見られたら、あの世話役らしい老人や番人であるという少女に変な顔をさせてしまうだろう。彼らが来るまでにせめて身支度は整えておこうと、アレンはベッド脇に置かれた卓を探ろうとした。卓は左側にあったので反射的に左手を伸ばそうとして、それが既に失われたものだと知る。疲れたような苦笑を深めて右手で卓を漁り、適当な衣服を取り出して広げた。着替えて起きて、あの支部長のところへ行かなければ。

しかし彼はベッドの上で身体を起こした状態のまま、しばらくじっと動かなかった。右手で前髪を上げると額の五芒星が晒される。きつく目を閉じて、彼はそのままの体勢で再び意識を飛ばそうとした。



今度はちゃんと、“あなた”の顔が見れる、夢の続きを。



だが彼の望みはまたも叶わない。無理な姿勢での二度寝へ入り込むすんでのところでアレンを呼ぶ声が微かに聞こえ、彼は現実へ引き戻された。何かと気にかけてくれているウォンだろう。アレンはだるそうに身体を起こす。



「……起きてますよ。どうぞ」
「おはようございます、ウォーカーくん」



ウォンの嫌味のない笑顔に、少しばかり恨みに思ってしまったアレンはばつが悪く感じてしまう。それが顔に出ていたのか、どうかしたのかと問う彼に引きつった笑みを返すと、変なところで鈍感な老人は安心したようにゆったり微笑んだ。



「あなたが元気になったと知ったら、ここの支部の団員たちが面会したがっていてかないませんよ。何しろ滅多にお目にかかれないお仲間ですからね」
「僕もお会いしたいです、皆さんに」

「そう言って頂けると嬉しいです。後でご興味がありましたらまたご案内致しますから、そのときにでも」



言いながら、ウォンはてきぱきと朝食を並べてゆく。左腕を失くした今、アレンが食べる量は以前とは比べ物にならないほど少ないが、それでも常人よりはかなり多かった。空腹ではあったので、アレンは素直に歓声を上げる。



「あはは、ありがとうございます。お腹減ってたんで」



さっそく出された食事に手をつけながら、先ほどのウォンが口にしたことをアレンは尋ねる。



「ところで、滅多に会えない仲間、って…。僕たち、確かに定住できてませんけど、それでも会おうと思えば会えるのでは」
「絶対的な数が違いますからね。実働班の中でもエクソシストは」
「ああ、だから」
「はい。しかし純粋に、同胞の元気な姿を見るのは嬉しいものですよ」



ウォーカーくんも早く元気になって、爺を喜ばせて下さいませ、とウォンは言う。アレン自身はすっかり元の調子を取り戻していたが、それでもこの人の良い老爺の心遣いが嬉しかった。



「ウォンさんは僕のこと、まだ仲間だと思ってくれるんですね」
「言わないほうが宜しかったですか?」



アレンは小さく首を振る。ウォンはそんな彼に目を澄ませ、小さく笑った。




「ウォーカーくん、あなたの知らないところにもあなたの仲間を自称する人間はいるのだと、覚えておいて下さいましね」
「……仲間」
「黒の教団の正確な団員数を求めることは困難ですし、教団を支持する民間人も数え切れません。ローズクロスのもとに集い、志を同じくする人間ならば、ウォーカーくんのことを皆、誇らしく思っていることでしょう」



アレンは同じ立場のエクソシスト以外では、本部で知り合い、話をするようになった者たちしか知らなかった。今こうして世話になっているアジア支部でさえ知識として知っていただけで、ウォンのこともフォーのことも、支部長であるバクのことも興味はなかった。教団に属する全ての団員の顔など覚え切れているわけもなく、そして当のエクソシストたちでさえ、アレンが直接知っているのは数人だった。

指折り数えて愕然とする。



師であるクロス・マリアン、何かと良くしてくれ頼りにもなるリナリー・リー、不気味な外見も慣れれば親しみのわくヘブラスカ、得体は知れないが実力も人の良さも確かであるラビ、その師ブックマン、任務の途中で出会ったミランダ・ロットー、アレイスター・クロウリー……



排除していた名を最後に刻む。



…………神田。神田ユウ。



以上、八名。

アレンと時代を同じくして所属していたはずのエクソシストのうち、半分にも満たない。



「僕には知らないことが多すぎますね、実際」
「年を重ねても知らないことだらけですよ。お焦りになる必要はない」
「あの、」



八人しか知らないエクソシストたち。殺されたという者、まだ見ぬ者、そして過去に存在したはずの数多くの適合者たち。彼らのことをアレンは何ひとつ知らない。

今でも、知ろうとは思わない。



脳裏にちらつく黒い影に、暗く濁る思考を振り払うべくアレンは別のことをウォンに言う。



「……わかりあえない人間、というのも、ありますか?ウォンさんでも」
「と、言いますと」
「いえ、単純に、顔を見れば速攻で罵り合いが始まるような知り合いがいまして。今ちょっと思い出してしまって何かこう気持ちが沈むというかはらわたが煮えるというか」



食事を中断してアレンはぶつぶつと独り言のように続ける。実際ほとんど独り言だろうとウォンは思った。



「いいところもあるはずなんですけどねぇ多分。でも向こうは態度を変える気配は微塵もありませんからそうは思いたくないんですよね。何しろ一度、ああこの人とは相容れないなぁと判断した手前、こちらから見直すのは癪で。
……こんなこと言うとまたガキだの何だのやかましいこと言われそうですけど」



どう思います、アレンは呟く。目線はウォンのほうに向かっているが、アレンは彼を見てはいない。ウォンは彼が望むような回答を言おうとして口を開こうとし、アレンの見ているものを察して意図的に言葉を飲み込んだ。彼は別段、ウォンに言いたくて言っているわけではない。徐々に顔を伏せるアレンへ言おうとしたものの代わりに、彼は少々見当外れなことを口にした。



「あなたは、その方のことが大事なのですね」



アレンは驚いたように顔を上げる。虚空をさまよっていた視線がようやくウォンに重なった。



「大切に思われる方がいらっしゃるのは、とても素敵なことですよ」
「あの、ええと、それは確かにそうなんですけど」



そういう言い方だと正直言って鳥肌立つんですけど、いやいやそんな気色の悪いというか人生の落伍者みたいな真似はちょっと、などと言い訳めいたものをしどろもどろ並べながら、アレンは本気で困惑しているようだった。上目遣いにウォンを見て、困ったように苦笑う。



「……大切なんですかね、僕」
「疑問に思われますか?」



何なら、とウォンは言う。



「ウォーカーくんが見知っている方の顔を、順々に思い浮かべていって御覧なさい。その方を思い浮かべるのが早ければ早いほど、あなたにとっては重要性のある人物ということになりますよ」
「それって大事だとか大切だとはあまり関係がないような」



真顔で指摘するアレンに、己の優先順位を知るのもひとつの手段だとウォンは笑う。



「私はまた後で参りますから。
そのときには誰か一人二人、ご紹介するために伴って参りましょう。それでは、ごゆっくり」



柔らかな笑みを残してウォンは部屋を去る。良いようにあしらわれた気がしなくもないが、アレンは彼の柔和な顔を見送りながら、夢の中で求めた月を思い出していた。届こうとしていたものに狙いを定めた瞬間、阻害すべく現れた白い手。アレンの抵抗を許さなかったそれは、彼が望みを叶える危険性を知っていたのだろうかと思う。アレンの望みなど、決して明るいものではないのだと。

どうせろくでもないことなのだから、恨まれてでも止めるのだと。



「……だからって感謝はしないけどね」



アレンはやる気なく食事を再開しながら、彼が言ったように順々に知り合いの顔を辿ってみた。養父から始まり養父で終わるはずだと思っていたのだが。



「何であなたが出てくんですかねぇちょっと神田」



ウォンに漏らした愚痴で一気に彼を思い出したせいか、誰より強烈に浮かんでくるのが忌々しい。思い出す他の皆は揃って笑顔だと言うのに、彼だけ仏頂面なのも気に食わない。(いや、神田の笑顔のほうが気色悪くて見たくないと心の中で訂正した)

せっかく最近は忘れていたというのに台無しだ。しばらくは顔を付き合わせることもないだろうから、またじっくり忘れていこうと決意したところで。

唐突に、ウォンの言葉が反響した。



『あなたは、その方のことが大事なのですね』



その可能性に行き当たり、アレンは啜っていた粥を噴き出しそうになる。



「いやいや、まさか」



消えろ目障り鬱陶しい、とまさに神田の口癖をアレン自身も念じながら、必死に養父や他の仲間の顔を思い浮かべて彼の残像を振り払おうとする。

だが消そうと思えば消すことが可能なほど、印象の弱い人間ではないのだ、神田は。絹糸の黒髪がアレンの視界で幻影として踊る。淡い光の中できらきら輝くのがうんざりするほど美しい。



「…………馬鹿みたいだ」



自嘲気味に吐き捨てて、次に神田に会うときには、暴言の代わりにキスを贈呈することを心に決めた。









3万打記念にと、「海鳥」の柳瀬万里さんが素敵なお祝いを下さいました!!
キャー!ありがとう愛してるよマリリン!(笑)(ごめんなさい言ってみたかっただけです…土下座)
何というか、私の理想の本誌アレンっぽい雰囲気でドツボりました。
流石よく的を射ておられます…柳瀬さん本当にありがとう!
…そして4時過ぎまでお疲れ様でした!(笑)
(↑が送られてきた時間がAM4時過ぎでした…)